あれほど、物語で容易に人を殺すなと言っただろう。どうして冒頭で早速青野くんは死んでしまうのか。なんで恋人ができて2週間で、交通事故なんかで死んでしまうのか。どうして彼女にとっては初めての彼氏なのに、死んでしまうのか。私は怒っている。
青野くんはこの世に留まり、引き続き優里ちゃんと恋人の時間を楽しもうとする。一緒に歌ったり、家で映画を観たりする。じゃあいいじゃん、めでたしめでたし…とは、ならないようにできている。
恋人でいるということは、話せて、においが嗅げて、さわれることだと私は思う(「今はできないけど、将来きっと話せる/嗅げる/さわれる」って希望がある場合も含む)。全部ができないとなると、いっそ清々しい。一部だけできると、一部のできなさが、とても気になる。欲望の純度が上がって鋭くなる。
青野くんと優里ちゃんは、話すことができる。でも、においは嗅げない。もちろん、ふれあえない。この作品は、こうした感覚の不在を拡張して伝えるから、悲しい。足りなさに泣いてしまう。例えば青野くんは、優里ちゃんに抱き締めてほしいとき、枕だとか電柱だとかに自分の姿を埋める。優里ちゃんは枕や電柱ごと、青野くんを抱き締める。しかし結局抱き締めているのは、枕であり電柱である。枕から漂うのは、青野くんのじゃなく優里ちゃんのにおいだ。青野くんの体の柔らかさを、優里ちゃんは知ることができない。
なんでにおいが知りたいかっていうと、肌のにおいがわかる距離にいる私、という自信になるからだと思う。パーソナルスペースに入れてもらったぞ!という登頂旗になる、というか(そうそう、「相手の領域に入る」という切り口が、ホラーと恋愛ものの交差するところになるって、私はこの物語で初めて気づいた)。あと、においは、記憶と直結している。その人のにおいがすれば、その人と過ごした時間も立ち上る。においのない思い出は、引っ張り出しにくい。
なんでさわり心地を確かめたくなってしまうかというと、たぶん、肌の感覚って、代わりのきかなさと記録のできなさが顕著だからだと思う。話し方は、あるいは筆跡なんかは、他人だっていいところまで真似できるかもしれない。でも、肌の感じって、なかなか再現できない。どんな風に緊張して弛緩してたかとか、どんな風に汗をかくかとか。姿は写真で、声ならレコーダーで、断片をとっておけるけど、さわり心地を保管するためにできることは、感じ取ったものを忘れないようにするぞ、と心がけるくらいのものだ。
だから私は祈っている。
どうか優里ちゃんが、青野くんのにおいを嗅げますように、青野くんの肌触りをたしかめられますように。
そうして、青野くんといたことを、青野くんがいたことを、ちゃんと留めておけますように。
↓1,2話はウェブで読めることに気づきました。