私は、私だけがつらいと思いたい。
他の誰よりも私がつらいと信じたい。
私のつらさについて話してもどうせわかってもらえないから(というか、向こうが「わかるよ」というのがいまいち信用できないから)人に話したくはないけど(というか話してはいて、その度に「やっぱりだめだった!」と敗れ続けているけど)、なんか、寄り添ってもらった、って実感がほしい。

…というときに読むべき漫画が『岡崎に捧ぐ』である。

昔、妹もうっすら死にたいと思っていることがわかったとき、私は心底がっかりした。自分にうんざりして死にたいと思っている私は特別だ、と思うことで生きていたから。死にたさは私だけの特権ではなかった。

別にロープも買ってないし手首も切っていないけど、私はたしかに死にたかった(というか、今でも頻繁に、痛みさえ伴わないなら死にたいなあと思う)。暗い水面をじっと見つめているときのような、吸い込まれるような寂しさ・虚しさにやられてしまうときのことを、「誰だってそういうとき、あるよ」なんて言葉で薄めないでほしい。誰だってあることでも、今ここにあるつらさを背負う人は私しかいない。

つらさを分かち合いたいと、同じく絶望しているとおぼしき人と話すとする。大体その先には「私の方がつらい」って言われる、もしくは、「そうだよね、私もね」と「受け止めると見せかけてブーメランだった」戦法の餌食になる、の未来が待っている。もっとひどいのは、「ちゃんと寝てるなら/食べてるならその程度のつらさ」って言われること。24時間365日休まず働く体育会系つらいのみが正義とされてしまうと、へなちょこな私のつらさはまじで立つ瀬がない。膝から崩れ落ちる(そしてまたつらさが積もって、彼らの正義に一歩近づく。やったネ!)。

だから私は、『岡崎に捧ぐ』に感謝したい。

各話の表紙、満面の笑みの山本さんも、心を置いてきちゃったような顔の山本さんも、どっちも描いてくれて、ありがとう。

ぎゃあぎゃあ言いながらいたずらする山本さんも、布団をかぶって泣いている山本さんも、同じ巻で描いてくれて、ありがとう。

つらくても漫画読んで笑い転げていいし、幸せでもやけ酒して泣いたって、いいんだから。
山本さんなら、きっとそう言ってくれるよね。