gazou
私は、大学の2回目の卒業パーティーに、行かなかった。

やや変則的なカリキュラムに従っていた私は、学部を卒業した次の年に修士課程を終えた。そんなわけで、2年連続で卒業式に出た。

2回目の卒業式のとき、同じ年に学部生になった人のうち、留学や留年でストレートより1年遅れて卒業する人たちで卒業パーティをする、という話を聞いた。出席していれば私にとって2回目の卒業パーティだったけれど、親切な人が誘ってくれたけど、行かなかった。自分がいてもいなくてもどっちだっていい存在だということがはっきりわかるパーティになるだろうと思った(今考えれば、1回目のパーティではこの発想に至らなかったことが、不思議)。パーティに気軽に参加する、ということは、私にとってすごく難しい。

そんなわけで私は、2回目の卒業式が終わった日の夜、その街のはじっこにある映画館で、ぎりぎり上演されている何ヵ月か前のヒット作を観た。

奇数をあらわす「2n+1」の、1に私は親しみを感じる。3人で話していると大抵1の方にいる気がする。だから、2nに含まれる他ないようなところか、2nと切り離された場所にいると、気が楽だ(まあ、いつもってわけじゃないが)。映画館は、誰でも暗闇にすっぽり包まれていっしょくたになるから、一人の時間を過ごすのにぴったりの場所だ。

そんなわけで今日ご紹介するのは、一人で観た映画。

気づけば、あんなにばかにしていた、食べログで日記を書いてる人みたいになってしまった。
食べログのレビューを読む大方の人にとって、そのレビューがレビュアーの何回目の投稿かなんて、
そしてレビュアーがどんなお昼休みを過ごしているかなんて、どうだっていいのにね。

眠り姫

七里圭監督作品の映画。
この間紹介した「うつせみ」は声が制限された映画でしたが、これは逆で、ほとんど声だけがある作品です。

あまり動きのない風景、もしくは、静止画がスクリーンに写されて、登場人物の会話や、日常生活の音だけが流れる。
登場人物の顔も、姿形も、最初から最後まではっきりとはわからない。
教室のシーンで写されるのは机と椅子。
電車のシーンで写されるのはつり革と座席。
声は聞こえるのに、音はしているのに、写し出される空間には誰も、写っていない。

つまりこの映画の中では、人が音声だけで存在している。

観客はだんだん、自分がみているのは映画なのか夢なのか、わからなくなってきます。
少なくとも、私はそうでした。
まどろみながらも、声の持つ力に驚くことになります。
ただ声と物音しか与えられていないのに、この映画の「行為」のシーンは恐ろしく官能的です。体温すら感じられそう。

たぶん私たちがちゃんと満たされるために必要なのは、完成させずに置いておくことができる、余地なのでしょう。
今、世界のあらゆる余地はせっせと埋められつつあるけれど、
それぞれの想像する青地がいて、それぞれの想像する野口がいて、こういう映画がある限り、
世界はぎりぎり豊かな広がりをなくさずにいられるのでしょう。

DVDにはなっていないようなのですが(というか、この映画の場合DVDで観る意味はあまりないかと)、
時々アンコール上映を映画館で行っているようなので、
ご関心がある方は公式サイトをチェックしてみてください。

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